一つ、大きくなった子どもたちは、今までの生活より求められることが増えていきます。
「年長さんだから」「お兄ちゃんになったから」と、なぜか周りはバージョンをあげてしまいがちです。
子どもによっては、この言葉がモチベーションをあげたり、自分なりの目的になったりする場合もあります。
ですが、その子の目的にならない段階もありますので、みんなに生活の在り方を変えていくのが当てはまるわけではありません。
今までの生活の流れを大切にしながら、その子にとって何なら、次のステップに向けていくことができるのか考える必要があります。
そんな中で、年長さんたちは、ご飯の時に、お茶を汲んだり、お汁を運んだりと自分のことを自分でしていく場面があります。
食べたいという思いや食べるためにお汁が必要だからという思いがあるから、お茶をつぐ、お汁を運ぶということに行動を移していきます。さらに、こぼさないようにつぐ、運ぶということをするわけですから、かなりの緊張感や集中力が必要になっていきます。
(コンビニでコーヒーを買って、ふたをせずに100メートル先までもっていくという状態だと思ってください)
想像するだけで、かなり疲れることになります。そんなことが毎日続くわけです。
子どもによっては、「てつだって」という言葉も聞かれます。そんな時は、お汁を運ぶ手や腕にそっと、手を添えます。添えるだけですので、こぼさないように運ぶのは子ども自身です。また、さりげなく、周りの子が近づかないようにしたり、通り道を開けたりと、安心材料を作っていきます。だんだんと、子どもたちは安心したり、できるという確信をもっていきます。
支えなくても、できることはたくさんあると思います。だからと言って、できるのだから、当たり前では決してありません。
コーヒー、こぼさず、100メートル先まで運べたとしても、急がされたり、車が近づいてきたり、雨が降っていたりしたら、決して当たり前に運べるということではないことです。
だから、「てつだって」ということばは、大いに支えてあげなくてはいけない言葉です。大いに支えるというのは、直接的な支えもあれば、部分的な支えでよいこともありますし、声をたり見守ったりという心理的な支えもあります。
支えるというのは、重要かつさりげなくありたいものです。